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『銀河鉄道の夜』

 映画『銀河鉄道の夜』を観たのは小学生の頃で、当時はどういう話だったか、全然印象に残っていませんでした。一つだけ覚えていたのは、一番最後で、川に落ちたカムパネルラがもう助からないと悟った父が、懐中時計を見ながら「もう四十五分経ちました」という科白でした。

 ああ、水に落ちて四十五分経ったら絶望なのだなあ、という知識がそのときに植え付けられました。

 それと同時に、もう一つ、超強烈に植え付けられたことがありまして、それは「この話の主人公は猫である」ということです(※ 実際には人間です)。この映画はアニメーションなのですが、登場人物が擬人化されたネコで描かれているんです。

 はじめてこの映画観たのと同じ頃、たぶん池袋の東武百貨店だったと思いますが、この映画のセル画展が開かれていたのを見に行って、ますます刷り込みが強烈なものになりますた。

 それ以来、本でこの小説を読んだときにも、この呪縛から逃れるのは難しく、ジョバンニもカムパネルラも全部ネコの姿で思い浮かぶというありさまです。恐るべし、映像の力。il||li _| ̄|○ il||li

 最近何度か、『銀河鉄道の夜』を読み返してみたんですが、大筋は分かるものの、どことなく謎めいた雰囲気は、何度読み返しても汲み尽くせないものが有るように思います。おじいさんになってから読んだら、どう考えるんでしょう。

 あと、至る所に散りばめられた鉱物の話、天文の話などは、子供のときには感じることのできなかった現実感があるのは、曲がりなりにも(?)地学の出身だからかもです。

 改めて読んで気になった科白は以下のものです。「鳥を捕る人」というところに出てくる:

「そいつはな、雑作ない。さぎというものは、みんな天の川の砂が凝って、ぼおっとできるもんですからね、そして始終川へ帰りますからね、川原で待っていて、鷺がみんな、脚をこういうふうにしておりてくるとこを、そいつが地べたへつくかつかないうちに、ぴたっと押えちまうんです。するともう鷺は、かたまって安心して死んじまいます。あとはもう、わかり切ってまさあ。押し葉にするだけです」

という「鳥捕り」の科白で、捕獲した鳥が「安心して死んじまいます」という表現に、何とも云えない優しさを感じました。この話は、小説というよりも童話なのだと、そのときに改めて思ったのでした。