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誕生寺参詣(その2)

 本堂の脇には、観音様を祀った、小さなお堂があります。このお堂が中国観音霊場の札所なのですが、番号が振られているわけではなくて、「特別霊場」と云うよくわからない札所です。

 ふつう観音霊場巡りは、法華経に出てくる観世音菩薩の三十三身に因んで、三十三箇所に設定されることが多いようです。中国観音霊場も札所の番号は三十三番なのですが、それ以外に島根県を除く各県に一箇所ずつ「特別霊場」が設定されていて、都合三十七箇所の札所があります。ですので、「西国三十三箇所」のように「中国三十三箇所」という名称ではなく、単に「中国観音霊場」という名称になっているようです。
 この「特別霊場」がどういう位置づけなのかは不詳ですが、とりあえず三十三箇所選んだものの、後から何らかの事情で追加したものなのかも知れません(?)。

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 誕生寺の観音様は、聖観世音という、一番人間に近い恰好をした(つまり、手とか顔とかが沢山あるタイプではない)観音様のお姿です。

 そして、観音堂の前には例の小坊主さんが佇んでいました。

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 …ますます、完全に目がイッちゃってます。(゚Д゚;∬

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 本堂の裏の方に回ると、法然上人の両親の廟所とか、法然上人の産湯を使った井戸など、所縁の遺跡があります。

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 さらに裏手の坂道を上って行くと、浄土院という「奥の院」が有り、六角堂というお堂に、法然上人の両親が祀られています。ここのご住職からは、御朱印を頂くついでに法然上人がお念佛の教えを広めるにあたって、どのようにネットワークを築いたのか、という話をお聞きしました。

 法然上人が最初に入ったお寺である菩提寺(誕生寺から少し離れた場所にある)というお寺には、いわゆる遊行の人たちや山伏などが盛んに出入りしていて、全国の情報が交換されていたのだそうです。そうした環境に育った法然上人は、のちに比叡山黒谷で教えを広めるにあたり、やはりその地に出入りしていた念佛聖・高野聖と云った遊行者たちに教えを伝え、そしてそれらの遊行者が全国へと、念佛の教えを伝えていったとのこと。こうした鄙びた田舎の出である法然上人は、こうしてネットワークを全国に拡げていったのです、というお話しでした。

 ところで、こちらのお寺はいわゆる塔頭寺院なのか、それとも偶々隣にある独立寺院なのかは不明。御朱印を頂くときにお訊きすれば良かったと後悔。

 再び誕生寺の本堂の方に戻り、寺務所で中国観音霊場の御朱印中国地蔵尊霊場の御朱印法然上人二十五霊場の御朱印をいただきました。中国地蔵尊霊場の納経帳と、法然上人二十五霊場の納経帳も入手(発願)。特に後者は、京都に結構な数の札所があるので、来週の京都旅行とか、春からの京女出講のときに持って行くことにするます。

 なお、誕生寺にはオリジナルの御朱印帳もありました。私が所有している同じ大きさの御朱印帳の色違い(紺色系)と思われ、それが正しければ、約18×11.7cmという大きさです(実物同志を比較していないので、間違っていたらすみません)。もともとは汎用品として作られている物に、寺名だけ入れて売られているように見受けられました。

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