たまには寿司にしようということで、近所のスーパーで寿司を買ってきました。うちの近所には出前のお寿司屋さんが無くて(または、単に知らないだけ)、かといって、チェーン店の出前の寿司は高い割に不味いので、だったらスーパーの寿司でいいかなと。
持って帰ってくる途中、崩れてしまった鮭は握り直してもらって、天ぷらとお吸い物も作ってもらって、まだ残っていた「御前酒」でおいしくいただきました。
たまには寿司にしようということで、近所のスーパーで寿司を買ってきました。うちの近所には出前のお寿司屋さんが無くて(または、単に知らないだけ)、かといって、チェーン店の出前の寿司は高い割に不味いので、だったらスーパーの寿司でいいかなと。
持って帰ってくる途中、崩れてしまった鮭は握り直してもらって、天ぷらとお吸い物も作ってもらって、まだ残っていた「御前酒」でおいしくいただきました。
宮沢賢治の童話の中で、いま、とても心に残っているのは『気のいい火山弾』という作品です。
火山弾というのは、火山が噴火したとき、まだドロドロの溶岩の塊が火口から放り出され、空中で回転しながら固まって地面に落ちてきたものです。空中でぐるぐると回りながら固まったため、ふつうの石ころとは違った、変わった形をしている場合が多いのですが、この話に出てくる「ベゴ石」と名付けられた火山弾は「紡錘状火山弾」と呼ばれるもので、
ベゴ石は、稜がなくて、丁度卵の両はじを、少しひらたくのばしたやうな形でした。
このベゴ石は、
非常に、たちがよくて、一ぺんも怒ったことがないのでした。
それですから、深い霧がこめて、空も山も向ふの野原もなんにも見えず退くつな日は、稜のある石どもは、みんな、ベゴ石をからかって遊びました。
そんな風に、他の石たちや草たち、蚊や、はては自分の上に生えた苔からもからかわれ、馬鹿にされてしまいます。しかし、ベゴ石はいやな顔ひとつせず、静かに笑って過ごすのでした。
この物語の最後は、近くを通りかかった学者たちによって、その素晴らしい資料価値を認められたベゴ石が、帝国大学の地質教室へと運ばれていくところで終わります。これまでずっと、虐められ続けてきたベゴ石にもやっと認められるときがきた…というほど、この話は単純ではないように思えます。
「さあ、大切な標本だから、こはさないやうにして呉れ給へ。よく包んで呉れ給へ。苔なんかむしってしまはう。」
苔は、むしられて泣きました。火山弾はからだを、ていねいに、きれいな藁や、むしろに包まれながら、云ひました。
「みなさん。ながながお世話でした。苔さん。さよなら。さっきの歌を、あとで一ぺんでも、うたって下さい。私の行くところは、こゝのやうに明るい楽しいところではありません。けれども、私共は、みんな、自分でできることをしなければなりません。さよなら。みなさん。」
私は、この「苔は、むしられて泣きました。」の一節を読むたびに、無性に悲しく、胸が締め付けられるような苦しさを感じます。
本当は、苔もベゴ石のことを好きだったんじゃないだろうか?
そんなことを考えました。
ベゴ石は明るい陽光の輝く野原から、暗い大学の研究室へと送られていくのですが、ここに至って、ベゴ石をいじめ続けた苔すらも悪者ではなく、生きとし生けるもの、あらゆる自然への、ベゴ石のそして宮沢賢治の抱く愛おしさが、この一節に凝縮されているように思えるのです。
因みに。宮沢賢治の童話集は色々な文庫本で発売されていますが、この話はほとんどの文庫本には収録されていないようです。しかし、昨日紹介した、ぶんか社文庫版の『銀河鉄道の夜』には珍しく収録されています。
映画『銀河鉄道の夜』を観たのは小学生の頃で、当時はどういう話だったか、全然印象に残っていませんでした。一つだけ覚えていたのは、一番最後で、川に落ちたカムパネルラがもう助からないと悟った父が、懐中時計を見ながら「もう四十五分経ちました」という科白でした。
ああ、水に落ちて四十五分経ったら絶望なのだなあ、という知識がそのときに植え付けられました。
それと同時に、もう一つ、超強烈に植え付けられたことがありまして、それは「この話の主人公は猫である」ということです(※ 実際には人間です)。この映画はアニメーションなのですが、登場人物が擬人化されたネコで描かれているんです。
はじめてこの映画観たのと同じ頃、たぶん池袋の東武百貨店だったと思いますが、この映画のセル画展が開かれていたのを見に行って、ますます刷り込みが強烈なものになりますた。
それ以来、本でこの小説を読んだときにも、この呪縛から逃れるのは難しく、ジョバンニもカムパネルラも全部ネコの姿で思い浮かぶというありさまです。恐るべし、映像の力。il||li _| ̄|○ il||li
最近何度か、『銀河鉄道の夜』を読み返してみたんですが、大筋は分かるものの、どことなく謎めいた雰囲気は、何度読み返しても汲み尽くせないものが有るように思います。おじいさんになってから読んだら、どう考えるんでしょう。
あと、至る所に散りばめられた鉱物の話、天文の話などは、子供のときには感じることのできなかった現実感があるのは、曲がりなりにも(?)地学の出身だからかもです。
改めて読んで気になった科白は以下のものです。「鳥を捕る人」というところに出てくる:
「そいつはな、雑作ない。さぎというものは、みんな天の川の砂が凝って、ぼおっとできるもんですからね、そして始終川へ帰りますからね、川原で待っていて、鷺がみんな、脚をこういうふうにしておりてくるとこを、そいつが地べたへつくかつかないうちに、ぴたっと押えちまうんです。するともう鷺は、かたまって安心して死んじまいます。あとはもう、わかり切ってまさあ。押し葉にするだけです」
という「鳥捕り」の科白で、捕獲した鳥が「安心して死んじまいます」という表現に、何とも云えない優しさを感じました。この話は、小説というよりも童話なのだと、そのときに改めて思ったのでした。
相変わらず、昼間は暑い日々が続いていますが、朝晩は少しばかり涼しい風が吹くようになってきました。なんとなく、秋の気配がやってきたという感じです。
うちの前は農学部の農場で、いつもその中を横切って帰ってくるのですが、もうしばらくすると、帰り道は秋の虫の声に包まれることになりそうです。
大学のお盆休みは今日で終わりです。ここ数年は毎年のことではありますが、どこにもいかず、ずっとうちで過ごしました。
連休のうちに少しは仕事が進むかなとも思ったんですが(論文とか論文とか論文とか ...orz)、結局、大して進捗もせず、ですた。(´・ω・`)
その代わり(?)、文学作品は何冊か読みました。
中原中也とか。
堀辰雄とか。
太宰治とか。
これだけまとまって文学日和だったのは、中学生の時以来と云う勢いで読破チユウ。
さいきん、コンビニに行くと、何故かペットボトルのジュースが冷蔵庫ではなくて、冷【凍】庫の方に入って居るなあ~と思っていたら、凍らせた状態で販売するジュースというのが有るんですね。知りませんですた。(´・ω・`)
冷たくて美味しそうだったので「ぷるシャリみかん」というのを買ってみました。このままでは飲めないし、瓶に入っているから食べることもできないので、しばらく解かしてからじゃないといただけません。当然、外側から溶け始めて、芯のほうは最後まで固いままですので、時々良く振るか何かして攪拌しないと、按排が悪いです。
この商品の面白いところは、解けた部分から飲んでしまっても、最後まで(たぶん)一定の濃度のまま味わえる点です。ふつうのジュースを凍らせたものを解かしながら飲んだ場合、(たぶん)先に濃いジュースだけを飲む羽目になり、最後には味の薄い氷だけが残るんじゃないかと思います。氷そのものは、不純物を追い出しながら凍るでしょうし、溶けるときはその「追い出された」不純物の方が融点が低いから、先に液体になるのではないかと。…実験してみればいいんですが、どう思います?
このジュースの場合、完全に融解した状態では、ふつうの液体ではなくて、ゼリー状になっているようです。おそらく、そのあたりに「凍らせたものを解かしながら飲んでも不味くない」理由が有りそうです。ゲルにジュース(水+糖などの不純物)が取り込まれた状態で「丸ごと」凍ることで、水と不純物が分離しないまま凍ったり、解けたりする、ということなんでしょうか。
おそらく1990年頃、北京・王府井にある「百貨大樓」の文具店で、「英雄345」という万年筆を購入しました。当時で一本10円(日本円で150円ぐらい)だったとおもいます。
百貨大樓は今でも有るのかどうかわかりませんが、少なくとも当時は、人民共和国が建国した直後に建てられたと思われる古い建築で、昔ながらの中国式の売り場を持つ百貨店でした。
中国式、というのは、たぶん、かつての社会主義国に共通した販売方式でして、
1. 品物は全てガラスケースにしまわれていて、店員さんに頼んで品物を出してもらう。
2. 品物が気に入って買うことが決まったら、支払い窓口に行きお金を支払い、伝票を切ってもらう。
3. その伝票を持って元の売り場に戻り、包装しておいてもらった品物を受け取る。
…というものでした。効率が悪いといえば効率が悪いんですが、その何度もかかる手間の間に、色々な店員さんとお喋りできるのも、当時の中国旅行の楽しみではありました。
それ以来、やく20年に亘って一緒に過ごし、色々な国々を一緒に旅してきたのですが、遂に首が折れてお亡くなりになりました。(-人-)合掌
因みに、英雄というのは、上海にある文具製造業者で、租界時代に有ったParker社を接収して作られたのだとか。その流れもあって、万年筆は割と有名だそうです。今でもこの「英雄345」が販売されているかどうかわかりませんが、そのうち中国に行ったら、新しい「英雄」万年筆の品定めをしてみたいものです。その時まで、再見、英雄!
落ち込んでいるときに読むと、手がつけられなくなるぐらい、落ち込みに拍車がかかる(かもしれない)事請け合いの一篇。
葉蔵が飲んだくれてアパートに帰ってきたとき、玄関の扉の隙間から部屋の中をのぞき込み、同棲しているシズ子とその娘のシゲ子の幸せな様子を見て、そのまま扉を閉めて二度と帰らなかった、というくだりが痛切なまでに心に響きました。