以前から気になっていた電照栽培中の温室を発見し、覗いてみました。何かの苗らしきものが並んでいて、どうやら電照菊の花を作っているのではない模様ですが、結局なんだかわかりませんですた。(´・ω・`)
農学部に知り合いでもいれば、訊いてみるんですが。
以前から気になっていた電照栽培中の温室を発見し、覗いてみました。何かの苗らしきものが並んでいて、どうやら電照菊の花を作っているのではない模様ですが、結局なんだかわかりませんですた。(´・ω・`)
農学部に知り合いでもいれば、訊いてみるんですが。
ふだんはタバコを吸わなくなりましたが(以前はかなりのヘビースモーカーだったのですが)、たまに葉巻はいただきます。
きょうは、職場の同僚の人と一杯やることになり、はじめてオリファントに火を入れてみました。葉巻は大きければ大きいほど良いと思っているぐらいなので、この種の小さい、しかもドライシガーとなると辛いんじゃないかと思ったのですが、そんなことはありませんでした。
この「オリファント クナキエ」は、掌に収まってしまうぐらいの小さな小さな、オランダ製の葉巻です。着火するところが細くなっている、独特の形をしています。その香りや味わいは、かなり満足できるものだと思いますし、納められている木箱がまた、趣を添えています。
もちろん、プレミアム・シガーには及ばないですが、価格との釣り合いを考えたら、これはとても優秀な葉巻なのではないかと思いました。
今週は本当は、先週の法住寺のつづきで、養源院の血天井を見に行く積もりだったのですが、鳩居堂で買い物をしたくなったので、急遽方針転換で本能寺から四条の方に歩くことにしました。
京都のお気に入りのお店のひとつは、寺町にある「鳩居堂」です。伝統的な文具(文房四宝)やお香などを扱っている老舗で、私のお香(というよりもお線香)遍歴が始まるきっかけともなったお店のひとつです。京女に通っている期間はいつも、この鳩居堂に時々立ち寄るのですが、今日は今年度になってから初めての訪問。香炉の灰などを求めてきました。
この鳩居堂の斜向かいには、本能寺というお寺があります。
有名な「本能寺の変」の舞台となった寺ですが、当時の本能寺は現在の位置ではなく、本能寺の変の数年後に豊臣秀吉によって現在の場所に移転されたのだそう。その後も、何度か火災などで破壊されて仕舞ったため、現在の本堂は近代になってから再建されたものです。
工事中の柵が邪魔していますが、本堂の裏には信長公の廟所があります。自害したという信長公の遺体の行方ははっきりしていないようだし、それ以前にこの場所は本能寺の変があった場所でもないから、本当に信長公の墓であるかどうかは疑わしいと思います。実際、ここ以外にも何カ所かに「織田信長の墓」は存在するようです。しかし、本能寺の知名度の高さも手伝って、京都観光のついでに立ち寄ったと思われる、学生ぐらいの若い人たちが次々と訪れていました。
本能寺を出てからは、寺町通りを南下して、法性寺と矢田寺(両方とも御朱印を頂く事ができません)の前をすぎ、三条と交わるところから新京極の通りに入りました。このあたりは何度か通りましたが、誓願寺と蛸薬師堂ぐらいにしか行ったときがありませんでした。それ以外にも、小さいお寺が商店街の中にひっそりと佇んでいて、今日はそれらのお寺を回ることにしました。
最初に寄ったのは、和泉式部のお墓が有る誠心院です。北の方から歩いてくると、最初に目に入るのは和泉式部の墓と伝えられる宝篋印塔です。和泉式部は小倉百人一首にも出て来ます。
あらざらむ この世のほかの 思ひ出に 今ひとたびの 逢ふこともがな
個人的にはむしろ、娘の小式部内侍が詠んで、やはり小倉百人一首に選ばれている、
大江山いく野の道の遠ければ まだふみもみず天の橋立
の方が好きなのですが。
このお墓から、墓地の中を抜けると誠心院の本堂の横に出られます。本堂は周囲の建物の谷間にひっそりと建っている感じです。御朱印は本堂裏手の庫裏で頂く事ができます。
本当は、お寺に入るときは山門から入った方が良いのかも知れませんが、墓地から入ってきたために、誠心院の山門をくぐったのはお寺を出るときでした。商店街のお店とお店の間にぴったりとはまるように建つ、小さな山門でした。
次に寄ったお寺は、蛸薬師の近くにある寅薬師(西光寺)だったのですが、丁度法事中の真っ最中で、お詣りどころではありませんでした。ですので、今日はパス。
続いて立ち寄ったのが「倒蓮華寺」とも呼ばれる安養寺です。アパートのような鉄筋コンクリートの建物で、何処が本堂なのかと思ったら、階段を上った二階に有りました。ご本尊様の阿彌陀如来が乗っている蓮の花(蓮華座)が上下逆の意匠になっているので、「倒蓮華寺」という別名で呼ばれているのだそうですが、戸締まりされていて、ご本尊を直接拝むことはできませんでした。
御朱印は、一階の奥に有る庫裏で頂く事ができました。御朱印を書いていただく間の、お寺の方との雑談で、岡山から京女に教えに来ているという話になったのですが、いつの間にか浄土真宗のお坊さんと勘違いされていました。
さいごに寄ったお寺は「くさがみ」と呼ばれる善長寺。このお寺も一間ぐらいしかない入り口から入って行くのですが、奥まったところに有るお堂は、古びた小さな建物です。「くさ」って何?と思ったら、「瘡」つまり湿疹のことで、皮膚病の治癒に御利益のあるお寺という事のようです。お寺の横の庫裏で御朱印を頂く事ができます。
新京極は観光客が溢れかえっていますが、そこから一歩山門をくぐったところにある、こうした小さなお寺は、観光客が押し寄せるわけでもなく、むしろ地元の方々の信仰心によって支えられているという雰囲気です。御朱印をお願いすると「ようこそお詣りくださいました」と、どのお寺でも(御朱印を頂けないお寺は別して)声を掛けてくださったのでした。
富山に住んでいた頃、出張で長岡技大に行くときは、早朝の急行「きたぐに」で富山を出発し、帰りは深夜の「きたぐに」で帰富でした。こうすると、朝一番で先方に着くことができて、帰りは遅くまで仕事をしても、ゆっくりゴハンを食べてから帰ることができたのです。
もっとも、富山で寝過ごすと、大変なことになりますが…(さいわい、そういうことはありませんでした)。(;´Д`)
おそらく「きたぐに」は、(旧国鉄の路線では)最後に残されたふたつの定期急行列車のうちのひとつで(もう片方は青森 - 札幌の急行「はまなす」)、且つ、定期運用されている唯一の583系電車ではないかと思います。
夜行列車にも使えるよう、組み立てると寝台になる座席を備えた車両で、座席として使う場合は、向かい合わせで固定された四人がけの枡席です。もちろん、背もたれを倒すこともできません。
何せ青いから好きなんですが、 北海道に汽車で行ったときに乗った特急「はくつる」も583系でしたし、高校生のときコッソリと行った(家出じゃないです)青森旅行の帰りに乗った急行「津軽」も583系でした。また、北陸線の普通列車に使われていた車両も、583系を改造した車両が使われていました。そんなわけで、583系には大変思い入れがあります。 青いですし。
その583系も使われていた特急「はつかり」が一昨日、一日だけ復活したのだそうです。わざわざこの手の「企画列車」に乗りに行くほどでもないし、基本的に定期列車じゃないと萌えないのですが、年代的にももう583系自体がそろそろ見納めなのかも知れません。「きたぐに」にも、大阪から新潟まで通しで乗っておきたかったのですが、無理矢理新潟に行く出張でも考えない限りは、もう無理かもしれません。(´・ω・`)
というか、旧国鉄の急行列車が無くなりそうなだけではなく、特急列車も絶滅危惧種になりつつあるようです。子どもの頃に住んでいた赤羽は、東北本線や上越線・信越本線方面への特急・急行列車が全部集中していたので、交通公社の時刻表(国鉄の時刻表はまだありませんでした)が真っ黒になるぐらいに過密な、優等列車のダイヤが組まれていました。赤羽駅には、急行列車は停まりましたが、特急列車は停まりませんでした。しかし、踏切のところで見ていると、青森から来る「はつかり」はもちろん、東北や上信越・北陸からの特急列車と、それと同じ区間を走る急行列車が次々と通り過ぎていきました。それを見て、遠くの街を旅することを夢見ていた…のではなくて、そういう長距離列車に乗ること自体を夢見ていたのが、鉄の道に入り込んで行く、なんかの間違いだったようです。|ω・`)
東北・上越新幹線の開通で、それらが一気に無くなってしまい、文字通り時刻表が真っ白になるような、ダイヤの「白紙改正」になってしまいました(1982年ごろ)。そのときは子供心にも、色とりどりの夢を乗せて走っていた列車たちが全部、新幹線の白一色に塗りつぶされてしまうような寂しさを感じたのを、覚えています。
最後に残された、古き佳き時代の列車のたびは、新潟 - 青森を走る特急「いなほ」ぐらいかも知れません。
新潟の出張と無理矢理くっつけて青森いやなんでもあ(ry
いつの間にか、Spysee に登録されていますた。(・ω・)
名前が売れるのは結構なことではありますけど、自分から申し出た分けではないので、誰かが調査を依頼したか、または、自動的に生成されたか、そのどっちかです。
いずれの場合にしても、今までは正職員ではなかったですし、やっと仕事に就いて、これで多少は世間に対して認知されたって云うことなんですかねえ。
代表的なお経である「般若心経」の本を見ると、たいていの場合は、意味の上での区切りごとに空白が挿入されて書かれているようです。そうすると、その空白ごとに切って読めば良いでしょうし、息継ぎもそれらの場所ですれば良いと思われます。
ところが、一概にそうとも云えないようで、以下の例では息継ぎの位置と、空白の位置が一致せず、多くの場合は空白のひとつ前の文字で息継ぎをしています:
高野山真言宗成田山真如院による「般若心経」 [Flash形式]
逆に、以下の例のように、空白のひとつ後の文字で区切る場合もあるようです(この例では、区切りが空白と一致する場合もかなり混在しています):
真言宗智山派慈眼寺による「般若心経」 [MP3形式]
また、大勢で唱える場合は、以下の例のように息継ぎがあることをわからないようにしてしまう(管楽器や合唱でいうところのカンニング・ブレス)場合も有るようです。因みに、この録音はいろいろな楽器が入っていて、一番賑やかです:
曹洞宗成道寺による「般若心経」 [MP3形式]
こうなると、何が正しいのか訳がわかりませんが、宗派によって、唱え方に決まりがある可能性も有るかもしれません。そんなわけで一寸調べてみたら、同様のことが気になった人が他にもいたようです。
この頁に出てくる回答によれば:
1. たいていのお坊さんは、意味上の区切りと関係なく、息が続く限り読み続け、息が切れたら息継ぎをする。
2. 同じ宗派であっても、お坊さんによって息継ぎをするところはまちまち。
3. 更に、同じお坊さんが同じお経を読んでも、その都度息継ぎの場所が違うこともある。
…と云うことだそうです。要するに、あんまり息継ぎの場所に拘る必要はないらしいです。(´・ω・`)
因みに。いわゆる「声明(しょうみょう)」には「博士(ぼくふ)」という、一種の楽譜が用いられますが、浄土真宗で用いられるお経の本には、これを利用して息継ぎの位置や抑揚が細かく指示されている物があります。
また、例えば、真宗佛光寺派で用いられるお経の本は、それを更に改良した、五線譜のような形式もあります(正信念佛偈とか念佛和讃など)。これらを使えば、誰が読んでも同じようにお経を唱えることが出来るわけです。
大学教員とか、研究所などの研究員とか、いわゆる研究職と呼ばれる人たちの求人はふつう、「JREC-IN」というサイトで探すことが多いようです。私もあと一年半もないうちに任期が切れる(端的に言うとクビになる)ので、新しい仕事をここのサイトで日々、探しております。( ´Д`)
企業の研究所等ではたらく研究員という仕事はじっさいにありますし、そういう仕事の公募が出ているのもよく見るには見ますが、この種の企業(毛髪クリニックリーブ21)がJREC-INに求人を出しているのは始めてみました。だいたい、この手の企業は「包茎手術」とかと同じく、ある種の「コンプレックス産業」の雰囲気があって、ドウモ胡散臭いと思ってしまいがちなんですが、実際のところはどうなんですかね。
それはともかくとしても、ようするに「ハゲをナントカする研究」ということのようです。もしハゲが根治できたら、ノーベル賞が取れるかどうかわかりませんが、少なくともたいへんな栄誉とお金が転がり込んでくるだろうとは思います。
私がツルツルになる頃には、画期的な技術が開発されているかしらん?(´∀`*)
去年の今日、はじめて岡山市に来てから一年たちました。
岡山大学での仕事の話が来てから一週間後、(去年の)十月十三日に内定を頂きました。そのときは講義で京女に居たのですが、富山には帰らずにそのまま大阪で一泊して、翌日の十四日に岡山に来たのでした(新幹線ではなくて、特急の「はくと」と「いなば」を乗り継いで orz)。
岡山県自体は、数年前に学会で倉敷に行ったときが有りましたが、岡山市(飛行場を除く)に来たのは初めてで、まして岡山大学を見たのも初めてでした。
前日のメイルで案内されたとおり、岡大西門のバス停でバスを降りたら、上司となる教授が出迎えてくださり、イチョウ並木が色づき始めた学内を案内して回ってくださいました。
じつはこのときはまだ、教員として採用されるという事を知らなくて、お昼に入った生協の食堂に腰を下ろしたとき、「それでは助教で…」と云われて、「えっ?」となったのでした。
一年が経つのは、はやいものです。
関係ないですが、着任があと一年早かったら、最後の昼行急行「つやま」に乗ることができたのに。|ω・`)
昨日、京都の高島屋で見つけた「Tea.Pi.O.(ティピオ)」で買った、アールグレイをいただきました。
雰囲気も、売られている平べったいお茶の缶も、ルピシアとそっくりの店ですが、今日はじめて目にしました。どうやら、伊藤園と高島屋の合弁で運営しているらしく、関西では京都だけ、あとは関東地方と名古屋の高島屋にしか出店していない模様。
ティーコーディネーターという、お茶に詳しい店員さんが配置されているようで、いろいろと詳しく説明をしてくれました。また、売られているお茶は10グラム単位で量り売りしてくれます。
アールグレイでも、濃いめに香り付けしたものと、薄めのものと二種類有ったのですが、リプトンのレディグレイがわりと好きですと云ったら、濃い方を進めてくださいました。紅茶はあんまり詳しくないのですが、良い香りで美味しく頂く事ができました。また他の種類も試してみようかと思います。
こうしてまた、蒐集精神の深淵へと沈み込んでいく悪寒。(;´Д`)
先々週に行ってみたけれども、拝観時間が終わってしまっていたため引き返してきた方広寺に行ってきました。
七条から方広寺の方に向かう道すがら、豊国神社の前あたりの溝に、カメさんが這っていました。たぶん、イシガメだと思うのですが、近所から逃げ出してきたものが野生化して、溝の中で暮らしているのかも知れません。誰かが餌付けしている可能性もありますが、こんなところでどうやって生活しているのでしょう?
方広寺は天台宗で、豊臣秀吉によって建てられた大仏(奈良の大仏よりも大きいものだった)が有ったお寺ですが、地震や戦乱などで大仏は破壊されてしまい、いまは残っていません。お寺自体もあまり観光客が訪れないようで、ひっそりとした、鄙びた雰囲気です。
豊臣家滅亡の原因となった梵鐘は境内の入り口にあります。受付で100円払うと囲いの中にも入れてもらえるようですが、今回は外から眺めるだけにしました。「国家安康」「君臣豊楽」の銘文の部分は、白い印がつけられています。
鐘楼はパスしましたが、本堂の内部は拝観してきました。受付で200円払うと、堂守のおばあさんが案内をしてくださいました。
長屋のように間口が広い建物で、正面に向かって右側の部屋には大黒様が祀られています。大小二体の大黒像のうち、大きい方は最澄の手によるもの、小さい方は大きい像をモデルにして秀吉が造らせていつも身近に置いていた持仏だそうです。打出の小槌の代わりに武器を持ち甲冑を着て武装していること、表情が険しいこと、俵ではなくて臼の上に乗っていることなど、通常の大黒像とは異なる点が多々あり、そういうところが秀吉の気に入ったのだとか。
これらの仏像はお堂の奥の方、内陣に安置してあるのですが、中はかなり薄暗いです。「(燭台の脇に)懐中電燈が置いてありますから、どうぞ照らしてご覧下さい」と気遣って下さいました。
向かって左側には、本尊の毘盧遮那仏が祀られた本堂があります。また、かつて存在していた大仏像の一部なども展示されています。訪れたときは、お客は私一人だったのですが、案内して下さったおばあさんは、長い時間をかけて説明をしてくださいました。
方広寺から再び七条に戻り、三十三間堂はパスして、血天井の養源院も来週に回して、法住寺というお寺に寄りました。ここのお寺も観光地的ではなく、となりの三十三間堂とは対照的に静かな雰囲気ですが、拝観を申し出ると、お寺の奥さん(たぶん)が出てきて、案内をしてくれました。
このお寺は後白河上皇に縁のあるお寺で、すぐ裏には後白河上皇陵もあるのですが、寺の建物自体は最近に建てられたもので、歴史的なものではないようです。ただですね、いつも京女に向かうバスの窓から見ていて気になっていたのですが、このお寺の看板に「親鸞聖人そばくい御影」ということが書かれていて、そばくいって何?と、ずっと気になっていたんです。
親鸞というから浄土真宗かと思ったら、実際には天台宗の寺で、ご本尊は不動明王です。本尊というと菩薩や如来ばかりかと思っていたのですが、王でも本尊になれるんですねえ。そのご本尊は「身代わり不動」と呼ばれ、その霊験にあやかろうとした討ち入り前の大石内蔵助がお詣りに来たのだそうです。由来は定かでないそうですが、討ち入りの後に奉納されたという、四十七士の木像が雛壇に並べられていました。
本堂の隣は阿彌陀堂で、こちらに親鸞聖人の「そばくい御影(像)」も安置されていました。叡山修行中の親鸞が、既存の仏教に疑問を抱きはじめ、山を抜け出して京の六角堂に籠もっていたとき、その身代わりとなって置かれていたのが「そばくい御影」の木像なのだそうです。「そばくい」というのは、留守の間に振る舞われた蕎麦を木像が代わりに食べ、まるで親鸞がそこに居るかのように留守番をしていたという伝説に因んでいます。
うちは真言宗(智山派)ですが、最近はわりと浄土真宗に関心を寄せるようになっていることもあって、それもあってあれこれ質問したら、「浄土真宗の関係の方ですか?」と、逆に訊き返されました。京女(浄土真宗本願寺派)で働いているので、全く無関係ではないですが…。
因みにこのお寺、御朱印は「ご本尊」「親鸞御影」「赤穂浪士」の三種類があるのですが、赤穂浪士の御朱印というのも微妙な気がしたので、前二者の御朱印を頂いてきました。これで、手持ちの御朱印帳がいっぱいになったため、すぐ近くの智積院(真言宗智山派の本山)に寄って、新しい朱印帳も求めてきました。
観光地になっているような壮大な伽藍もいいですが、じっくりと説明に耳を傾けることのできる小さなお寺もまた、捨てがたいものです。来週は、今日行きそびれた養源院と、中学生の頃に一度行ったきりの三十三間堂にでも行ってみようかとおもうます。。